復讐の毒鼓 第90話(最終話)
この瞬間を、どれ程待ち侘びたか。泰山高校に潜り込んで約3週間、今すぐにでも殴りたい衝動を抑えに抑え込んできた。情報収集のため。敵の戦力を削ぐため。自身に課した抑圧から解き放たれた勇は今、力の限り早乙女を殴り続けている。
もう何発殴っただろう。いまだ激しく降り続ける雨音と、勇が早乙女を殴る音だけが公園に響き続ける。幾度となく殴られ続け、既に白目を剥いて気を失っている早乙女に、勇の復讐の鉄槌は止まらない。
「うああああっ!」
勇は雄叫びを上げて拳を振りかぶった。双子の兄を奪われた。父を奪われた。そのせいで母は失踪した。学校の理不尽な現状。今まで全力で抑え込んできた全ての感情を吐き出しながら振るった拳を、仁が止めた。
「もう終わりだ。終わったんだよ。」
(終わり…?これが…終わりだと…?)
仁のその言葉に我に返った勇は、血塗れになった早乙女の顔に触れた。
復讐は、果たせた。だが、後に残ったものは何だろう?心ゆくまで早乙女を殴れば、気が晴れると思っていた。しかし私怨を晴らしたところで、失った家族が戻ることはない。残ったものといえば目の前に転がる血塗れの残骸のようになった男と、自身の身体の痛みや疲れくらいである。復讐は、何も生まない。そんなことをしたところで、自分の身に起きたような悲劇がこの世から完全に消えることなどあり得るはずがない。遺された者の心の傷が癒える訳でもない。傷付いた他人。傷付いた自分。傷付いた心。ありとあらゆる残骸が、心の中に散らかるだけなのだ。そんなやり場のない感情に思わず上げた勇の叫び声が、雨の夜空に虚しく吸い込まれていった。
「なんだ?終わったのか?」
自身がスカウトした勇敢な市民達に続いて現場に着いた倉田が見たのは、リンチが復讐に変わった後の散らかった残骸だった。
『校内の不良グループを組織化させ運営していた学生グループの少年達が、一斉摘発されました。グループ内の生徒達は校長に2年半もの間、毎月50万円を裏金として渡し続け、その他の特別金と称した賄賂も含め、その金額は約二千万円に上ると見られています。それを盾に、校内暴力は明るみにならなかったことがわかりました。』
一条は勇に折られた腕にギプスをはめたまま、街中にあるビルのモニターが映す泰山高校の事件を報じる様子を少し俯いて聞いていた。事件の後一条は、勇にとって敵の立場ながらこの件に関する詳細な証言を警察に提供していた。
検察室の水谷の元で取調べを受ける早乙女の顔は、包帯や眼帯などに覆われた見るも無惨で痛ましいものだった。
「ずいぶん強力なコネがあるのね。」
「…。」
「貴方が手に入れようとしていた本物の力って、このコネのこと?」
「…。」
水谷の問い掛けに、早乙女は沈黙を続ける。そんな早乙女に、彼女は重々しく言い放った。
「まぁなんだっていいわ。これからは合法的に貴方を潰せる本物の力を見せてあげるから。」
「!」
それまで無表情だった早乙女の表情が僅かに動いた。
早乙女に法の下で罪を償う機会を与えられたのは、今回の復讐劇における勇にとっての唯一の収穫だった。だが、暴力を振るったことについては勇達の側にも同様のことが言える。私的な復讐を行うことの一番の欠点だ。だが倉田は、そんな勇達に朗報をもたらした。
「正当防衛が成立するってよ。内村清隆、南原光良、近江清十郎、木下千佳子の熱心な供述もあるし、何も言われねぇはずだ。にしても近江と遠藤のヤツ等、全部終わった後血相変えて走って来やがったぜ。笑っちまうよな。」
「走って来てくれただけでありがたいです。」
勇は至って謙虚な感想を口にした。倉田は少し言いにくそうに、口元に手を当てながら別の話題を切り出す。
「まぁな。あぁ、それとなんだ?木下千佳子とも、江上百々ともそのー…付き合わないらしーな?」
「彼女達が好きだったのは、僕じゃなくて秀ですから。」
「まぁな…。木下千佳子は秀が死んだってこと聞いて、もの凄い泣いてたしな…。」
「…。」
2人はしばし無言のまま、警察署の廊下を歩く。不意に、倉田が思い出したように口を開いた。
「なぁ、一つだけ聞いていいか?」
「はい?」
「あの状況でも木下と江上まで守らなきゃって思えたのか?」
「男にだけ義理があるわけじゃありませんから。助けてもらったし、守る義理はあります。」
「早乙女の約束を信じてたってことか?」
「早乙女が望んでたのはどちらかを選ぶことではなく、僕をひざまづかせることだったはずです。」
もしどちらかを選べば、どちらも攻撃される。勇はあの戦いの最中、絶体絶命の状況の中でそう考えていた。
「でも奴は、僕が自分に屈することでそれに満足して2人共離してやったはずです。女2人を潰すことより、僕を屈服させることが目的だったはずですから。」
「ハンッ!ガキのくせに頭働かせやがって!」
窮地に追い込まれてもなお冷静で的確な勇の判断に倉田が思わず憎まれ口を叩くと、勇の口元も少し緩んだ。
「これからどうするつもりだ?」
「…当分は休みたいです。それから…。」
先を想い、言葉に詰まる。だが、後ろを向いてばかりはいられない。
「また自分の人生に戻らないと。」
「そうか。頑張れよ。」
そう言って差し出された倉田の手と、勇はしっかりと握手を交わした。
(これからは…秀じゃなく…俺の人生が始まる…!)
勇が出入口の扉を開くと、そこから目も眩むほど眩しい光が差してくる。その光は自分の人生を歩み始めた勇の後ろに、長くくっきりとした影を作った。