復讐の毒鼓 第82話
水谷検事の元へ呼び出しの電話が入る。受話器を置き、呼び出した部長の元へ訪れるべく立ち上がる水谷の心中は穏やかではなかった。
「部長、お呼びでしょうか。」
検事部長の部屋へ入った水谷の目に留まったのは、一人の見知らぬ男だった。水谷は自分の携帯をテーブルの上に静かに伏せて置くと、すぐに彼の素性を訊いた。
「こちらの方は…?」
「どうも。早乙女検一です。」
「我々の先輩だよ。今は弁護士になられたが、元検事でらっしゃる。」
男の簡単な自己紹介を、検事部長の中森が補足する。
「そんな方がどうして私に…?」
「単刀直入に言いましょう。早乙女零の父親です。」
このタイミングでの父親の来訪に、水谷は動揺を隠せなかった。
「どうしたんですか?」
怒りのあまり思わず受話器を叩きつけた倉田に若手刑事が声を掛けた。
「ガキ共が数十人規模で喧嘩してるみたいで機動隊の出動申請出したが、ダメだった。こりゃ誰かが裏で一枚噛んでんな。」
倉田は苦虫を噛み潰したような顔でタバコを咥えた。
焼却炉の倉庫前では愛と四宮が戦っていた。四宮は愛の顔へパンチを放つも、彼の素早い動きを捉えられない。そのパンチをかいくぐった愛は、四宮の喉元に奪ったナイフの柄を押し当て、それをもう反対の手で引っこ抜いた。
「ゲホッ…!クッ…!」
喉を抑えて咳き込む四宮。そんな彼の目の前まで顔を近付け、愛はさらに挑発した。
「喧嘩…向いてないみたいだね?大丈夫?」
「んだと⁉︎ふざけんな!」
喧嘩の相手に同情されることほど屈辱的なものはない。完全に逆上した四宮は、愛に向けて拳を振り回した。だが冷静さを著しく欠いた男の動きなど、愛にとっては一時停止中の動画を見ているようなものだった。
予期せぬタイミングで拳に物が当たると、いかに握り拳といえどその衝撃に耐えられない。発射直後のまだ握り込まれていない拳に愛のナイフの柄の攻撃を喰らった四宮は、あまりの激痛に思わず後ずさった。
ドスッ!バキィッ!
手の激痛に気を取られた四宮は、その隙に腹、頭へと続け様に放たれた愛の蹴りに成す術なく沈んだ。
「さっき警察の友人から連絡がありましてね。」
「警察の友人?」
水谷は未だに早乙女の父親が来た理由、彼の言いたい事を理解しかねていた。
「ええ。まぁ水谷検事もこれからそうなると思いますが、この仕事を長くやってると警察、検事、政治家と、色んなとこに知り合いが増えましてね。」
ここまで聞いた水谷の頭に、不穏な疑惑がよぎった。
「じゃあ機動隊の出動が中断されたのも…。」
「いやいや、まさか私風情が…。ただ私の友人が保留にしてるだけです。」
「早乙女さん、先輩なんですから敬語はやめて下さいよ。」
中森が口を挟むと、早乙女の父親は少しくだけた口調で水谷との距離を縮めにかかる。だが水谷は、むしろこれまで以上に鋭い眼差しを以ってこれを拒否した。部屋の空気がにわかに張り詰める…。
豪雨の中、屋上で遠藤が目を覚ます。佐川の暴行に、彼は今まで気絶していた。まだ少し痛む顔に手を当てがいながら振り返ると、いつになく萎んだ近江の背中が見えた。
「なんだ?どーなってんだ?」
「どうやらここに閉じ込められたみたいだな。屋上のカギが閉まってる。」
その萎んだ背中に遠藤が問うと、背中に負けじと萎んだ表情で近江が答えた。
「他の奴らは?」
「神山狩りだな。外が落ち着いたら、俺たちもタダじゃ済まないだろうな。」
「だから言ったろ!会長を敵に回すなって…。」
先を憂えて一層萎んでいく近江に遠藤が言うと、近江は大きな溜息を一つついて立ち上がり、淵まで歩いていった。
「何してんだよ。」
「ここから飛び降りられるかなと思ってな…。」
「バカが、骨折れるわ。」
「神山1人がやられんのをただ見てる訳にはいかないだろ。」
たった1人で戦う神山を見殺しにする訳にはいかない。屋上の淵から下を見下ろす一本気な近江に、遠藤が厳しい現実を突きつけた。
「オレ達が人の心配してる場合かよ。元々無理ゲーだったんだよ。」
「無理ゲーだと…?」
遠藤の言葉にも視線を逸らさず下を見続ける近江の目は、まだ諦めてはいなかった。
愛が焼却炉の倉庫のドアを開けると、こちらを見る江上の姿があった。なんとか、無事に救出することができたのだ。
リンチ現場となっている公園の入り口に一台のバイクが停まった。
「降りて!ここからは走るから!」
弾かれるように勢い良く走り出す木下を仁が制止した。
「場所だけ教えておめーは帰れよー。女の子にゃ危ねー。」
「さっきあたしの実力見なかったの?」
雨合羽を脱いで気合を入れる仁に木下が抗議すると、仁は正直に答えた。
「もち、助けはありがてーけど、正直邪魔なんよ。」
「…。」
「出前野郎にここの場所教えといてな。」
私は、戦える。今度こそ、一緒に戦う。もう誰も死なせない。そんな想いでここまで来た木下だったが、想いの強さだけではどうにもならないものがあることを木下は間近で見続けてきた立場でもあった。自分の無力さが身に染みる。歯痒そうに見つめる木下に一つだけ頼み事をすると、仁は長く伸びたその髪を結わえながら公園へと続く階段を登っていった。